中国・山西省PR日本センター
更新日:2009年5月15日 | 編集

山西省の沿革と歴史

山西省は黄河の東に位置する南北に長い省で、太行山脈の西にあることから山西省と呼ばれるが、黄河の東にもあたることからかつては河東とも呼ばれた。黄 河とのあいだにも呂梁山脈が横たわるので、東西を山脈にはさまれて南北に細長く比較的平野部少ない省といえよう。
 
全体が黄土によっておおわれている。気候 的には東からの湿気を含んだ風が太行山脈によってはばまれるので乾燥度が高い。中国の北端に位置し、内蒙古(うちもうこ)に接し、北端に長城があり、南は 東流する黄河を越えると河南省である。それゆえに、北は北方民族に接し、南は中国華北の中枢部に連結する軍事上の要衝でもあった。省の北部を東流するのが桑 乾(そうかん)(桑干)河で天津(てんしん)に至る。黄河と同様に氾濫を繰り返し、氾濫とそのための河道の変遷の激しさから無定河とも称されたが、清代に 永定河と改称された。省のほぼ中央部から南北に貫いて流れるのが汾河である。山西省の盆地の主要な史跡は、この汾河の流域に形成されている。

春秋時代、山西省の地に建国したのは晋であった。よって後世も山西省は「晋」とも呼ばれるわけである。前5世紀なかばに至り、晋の領域は韓・魏・趙の3 氏によって分割され、これより戦国時代となる。戦国時代には、北部を趙、南部を魏が占め、韓は河南省に発展した。ついで秦代および漢代の初期、北方に威を ふるった匂奴(きょうど)も、漢代を通じてしばしば行われた征討によって衰え、匂奴の一部は山西の地に移って定住するに至る。こうした匂奴と、その別種で ある羯が挙兵したのを機縁に、4世紀以後は五胡十六国の時代となる。山西の地にもいくつかの王朝が興亡したが、5世紀には蒙古高原から南下した鮮卑族の北 魏が、この地を本拠に中国の北部一帯を統一した。そして北魏は5世紀の末、洛陽に遷都するまで、いまの大同を都として、その郊外に雲崗の石窟を開いたので あった。
 
世紀の末、隋が天下を統一するが、隋代の末、その将軍として太原に駐したのが李氏であった。隋末の混乱に乗じ、太原で挙兵した李氏は、唐王朝を建て、天 下を統一する。よって太原の地は北都と呼ばれ、唐代を通じて重んぜられた。唐が倒れ、五代の世となって、山西を地盤としたのは後唐および後晋であった。後 晋が倒れた後は、北漢があとを継ぎ、山西の地を保ったが、やがて宋に滅ぼされる。このように山西には中国史の歴代を通じて、有力な地方政権が割拠した。そ の間、五代のうち後晋の建国(936)にあたって、山西の北部は遼に割譲され、大同を中心とする地域は北宋の一代を通じて遼の支配下にあった。さらに 金が建国して宋朝を南方に追うと(1127)、山西の地はすべて金の領内に入る。したがって山西の各地には遼金時代の遺跡が多く残されている。

元代には中書省(中央政府)の直属とされたが、明代には山西省の省域が画定され、太原が省都とされた。中国経済史のうえに有名な山西商人が大きな活躍を 示すのも、明代以降である。その勢力は清代におよんでも強く、南方の寧波商人や新安商人に対抗して、中国北部の経済界に雄飛した。山西省の重要性は近代に なってもかわらなかった。清末から中華民国時代には、ここに拠点をおいた軍閥の閻錫山が強力であった。だが、この間に交通事情が全面的に改善されたとはいい がたく、今日でも山西省観光にはかなりの時間がかかる。なお、現在の山西省は、石炭の産地として名高い。石炭産業は省の基幹産業となっており、太原市内に は石炭博物館も設置されており、北方の朔州市では石灰の巨大な露天掘がおこなわれている。しかし、このような石炭の多用は、同時に深刻な大気汚染もひきお こしている。