中国・山西省PR日本センター
更新日:2010年11月12日 | 編集
*案内文は写真の下にあります!

五台山は「華北の屋根」と呼ばれる太行山系、忻州市五台県の東北部に位置し、太原から230km、忻州市から160km、車で約2時間を要する。最高海抜は3058m、山々が連綿と100km余りも続く。台懐鎮を中心に五台山の総面積は2837平方キロ。東西南北と中部に5つの台頂がある。

5つの峰の内側は台内、外側は台外と呼ばれる。東台の望海嶺は、台懐鎮の東10km、西台の掛月嶺は同西13km、南台の錦繍嶺は同南12km、北台の葉斗嶺は同北5km、中台の翠岩嶺は同西北10kmのところにある。

五台山は自然と文化、宗教の精髄が集約されており「天と人が合一された」この世の浄土である。100を超す壮大な名刹、あまたの仏国道場、2000年にわたり鳴り響いてきた鐘や鼓。中国で雄一、漢族とチベット族、この二大教派が並存してきた仏教の聖地である。四川省の我眉山、浙江省の普陀山、安徽省の九華山とともに仏教の四大名山と称され、その冠たる地位にある。

五台山はまた中華十大名山の一つ、中国の伝統文化の精髄が凝縮された文化の名山でもあり、中国人によく親しまれている魯智深が酔いつぶれて山門を開いたり、楊五郎や順治皇帝が出家したりする故事がここで生まれた。また歴史上、13代の皇帝が巡幸するなど、多くの人を感動させる伝説も残っている。仏教が広まったことで、五台県周辺の郷や鎮にも数多くの寺があり、これらが五台山の仏教文化の観光地を構成している。

◆最初の聖地

五台山の寺院の建立については唐代以降、非常に多くの伝説がある。「後漢説」と「北魏説」は代表的な見方を備えている。もちろん北魏であれ後漢時代であれ五台山の仏教はやはり草創の段階にあった。当時、廟宇は多くはなく規模も大きくは無い。大孚図寺はわずか「東西二間の仏堂」、仏光寺も「三間の仏堂、僧室十余間」しかなかった。五台山が仏教の聖地となり、内外の仏教界で重大な影響を与えるようになるのは唐代からである。

李唐王朝が太原に兵を起こして天下を取ったことで、五台山は「祖宗が徳を植えたところ」と見られるようになった。李淵は兵を挙げて隋に抵抗した際、仏教に対して大願を約束し、皇帝になったら必ず仏と法と僧の「三宝」を発揚すると語り、武徳2年(619)に李淵は国都に高僧を集め、10人の高僧を養成して僧尼の事務を管理した。唐太宗が即位すると経典翻訳の事業を興し3000人の僧侶を各地に派遣して寺院を建立させた。

仏教経典の中に出てくる文殊菩薩の住まい「清涼山」と「五頂山」が、五台山の地形や気候、環境と極めて似ていることから五台山は仏教の信徒が争って参詣する聖地となったのである。唐代、仏教は非常に崇められ文殊菩薩はことのほか仏教徒に崇拝されていた。国は全国すべての寺院の堂に文殊菩薩を祭られなければならないと規定。朝野ともに文殊菩薩を崇拝して祭り、五台山を仏教の聖地と看做したことから、五台山は空前の繁栄を見せ名僧を輩出した。唐代、史書などに記載された寺院は70数ケ所を数え規模もかなり壮大だった。

安史の乱以後、国による賦役や徴兵の負担が重くなったため、寺院は人々が賦役を逃れる逃避場所となった。寺院の経済負担が膨張したことから、唐文宗は仏教の禁止を考えるようになり、武宗は位を継いだ会昌5年(845)に仏教を廃止。廟宇の破壊を命令し僧尼に環俗するよう強制したが、五台山も例外ではなかった。その後、唐宣宗は即位すると再び仏教を興し、五台山の僧の数を「5千人僧」にするよう定めた。唐王朝は国威が強まり経済が栄えアジア各国の経済文化交流の中心となった。国際交流の拡大につれ五台山はインドや日本、朝鮮、スリランカなどの仏教徒の敬慕を受けるようになり、五台山を参拝し仏教の経典や仏法を求めるようになる。

なかでも日本の著名な高僧、天台宗の三祖円仁慈覚大師は法典を求めて巡礼した際、日本が結論を出せなかった天台宗の難問30条について、天台宗の高僧で五台山大華厳寺の志遠法師に解決を依頼し、日本の仏教徒から「唐決」と見られるよになった。日本の僧侶は五台山に多くの仏教経典を求めたのみならず、「五台山土石」を聖なるものとして日本に持ち帰り、日本国内では「上は天皇から下は公卿まで」が五台山の文殊菩薩の供養の費用として喜んで大量の金を布施した。唐以後、五台山の廟宇の数は絶えず増え続け仏教の聖地としての地位は、ますます強固なものになっていった。

◆チベット仏教

明の太祖朱元璋は早くに僧侶となり仏教を自然にことのほか崇拝し、名僧に対する大徳恩礼を強化するとともに、完璧な僧侶管理機構を設立した。同時に蒙古族やチベット少数民族を籠絡するためにラマ教(チベット仏教)を非常に崇敬。明成祖永楽4年(1406)朱棣はチベットに人を派遣してゴジ派の名僧ハリマラマ(本名はチュバイサンポ)を北京に来るように要請し、これを機に五台山でチベット仏教が流行するようになる。後に漢族の仏教とチベットの仏教を兼ね備えた名山へ徐々に発展していった。清王朝成立後、文殊菩薩を非常に崇敬する道場である五台山は開放され巡礼者に礼拝させた。

清代、蒙古族やチベット族の仏教徒は文殊菩薩と五台山を熱狂的に崇拝するようになる。「内外の蒙古の参拝者は、毎年4月から10月にかけて、ひっきりなしに続きまさに雲集のようである」「ラクダや馬、牛、羊を駆って数千里、街に溢れる貢献者は跡を絶たない」。多くの蒙古族やチベット族の仏教徒は死後、骨を五台山に埋めることを幸せとしていた。

現在、五台山には参拝できる廟宇が47ある。重点的に紹介する五爺廟、仏光寺、顕通寺、殊像寺のほかにも訪れる価値のあるところは多い。例えば碧山寺や南山寺、清涼寺、観音洞などだ。