中国・山西省PR日本センター
更新日:2009年5月15日 | 編集

*案内文は写真の下にあります!

綿山は、綿上とも言う。汾河の南岸に位置し、介休市の中心から20km。介休と霊石、汾源の3つの市・県に広がり、最高海抜は2566m、平均高度1000m以上。
連綿と続いていることから、そう名づけられた。後に、春秋晋国の介子推が母を伴って隠居し、山が燃やされたことで、介山とも呼ばれた。

 
「火焚綿山」(綿山を燃やす)の故事は多くの人が聞いたことがあり、歴史上確かにこうしたことはあった。「左伝」と「史記」の記載によると、春秋時代、晋国に介子推という人物がいた。正直で、忠臣孝行なことで知られた人であり、晋国の公子である重耳が国門を追われて外地に避難した際、介子推は忠誠心から重耳に付き添って外地を19年も漂泊した。

 
 衛国を通った際、重耳は飢えで歩けなくなり、臣下が競って野菜を採取しては煮たが、喉を通らず、そこで介子推は自らの太股の肉を引き裂き、スープにして重耳に飲ませた。重耳は深く感動し、「股を割いて君に奉じた」功であると褒め称えた。流亡の生活を終えて国に戻り、晋の文公となると、流亡の際に付き添った群臣は恩賞を競い合ったが、介子だけはこっそりと姿を消した。「終生むしろ貧しいことを望み、天の功を己の功にすることは望まない」と言いながら、老母を背負って綿山に隠居した。
 
 間もなく文公はこれを知り、すぐさま綿山に赴いた。だが、介子は死んでも出て会うことを断った。文公は介子推が親孝行であることを知っていたので、山に火をつける決断した。こうすれば、老母の命を守るために、母を背負って山中から逃げ出すだろうと考えたからである。結果、介子推は死んでも山から出ようとはせず、老母と抱き合いながら、激しい炎に包まれて山中で焼死した。
 
 文公が山を燃やした時は、ちょうど「清明節」(お墓参り)の前日だった。後に人々は介子推を記念するため、この日が来ると火を使うことが忍びなく、一日、冷たいものを口にするようになった。「寒食節」はこうして広まっていった。
今日の綿山には多くの景勝地があり、いずれも介子推とかかわりがあるものだ。介公嶺は綿山の魂であり、最も目を奪うものは、頂上にある介公墓と中腹の介公祠。歴代の王朝が多くの寺院や禅房を建立したことから、仏教の聖地として名を知られるようになった。

抱腹寺は、
抱腹岩に造られており、綿山第一の名勝だ。抱腹岩の崖は極めて高く、山岩上部は突出し、下部は凹み、中腹は空洞で、寺全体の約200間の仏殿が抱腹岩の腹の中に建っている。今でも数多くの重要な碑文を保存。著名な「大唐汾州抱腹寺碑」がここに残っている。碑の高さは3m、幅は1m、暑さ35cm。その両側に唐代や宋代、金代の題字が刻まれている。

抱腹岩の上に鉄索嶺と呼ばれる高さ約200mの峰がある。鉄の鎖を頼りに体を斜めにしながら登る。振り返って見ると、まさに万丈深淵で、思わず目が眩んでしまう。さらに上へと進めば、綿山の最高峰に。頂上に登れば、まさに翠が重畳する緑一色の世界だ。東南の草地に3つの矩形の巨岩が立っている。綿山が焼かれた際に介子推が受難したところだと言われる。
綿山が内外にその名を知られ、千百年にわたり来訪者が跡を絶たないのは、歩むたびに名勝があり、景色が典雅であるからだ。

古い桟道に
抱腹岩、百龍嶺、龍脊嶺、五龍瀑、水帘洞、水涛溝など、思わず足を止める景勝の地は300超。数え切れないほどの歴史上の著名人がここに故事を残している。